島原市弁天町 霊丘神社と末社
霊丘神社
島原の乱の後、当地を治めた高力氏により寛文四年(1664)東照宮が勧請されたことに始まり明治十六年(1883)社殿改築と同時に島原藩主松平氏七代の霊・稲荷大神を合祀し現在の霊丘神社なる。
祭神
徳川家康(東照大権現)
宗像大神
稲荷明神
島原藩主松平氏の霊七柱
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暮れも迫ってきた12月14日の朝に伺いました。神社の方には誰もおられずお参りをしてパシャパシャと写真を撮って来ました。
自分にとっては激動の一年だっというかそれまでとは大きく変わってしまった年となりましたね。
新年がよい歳であります様に! |
▼ 二の鳥居 ▼![]() |
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末社 蚕霊神社
霊丘神社の手水舎その左側に白い鳥居が見えます。鳥居の神額には蚕霊神社とあり明治時代に島原半島で養蚕業が盛んだったころの名残なんだと思われます。
▼ 手水 ▼![]() |
▼ 蚕霊神社 ▼![]() |
末社 潜龍園神社
末社ってどういった意味なの?
神社の境内にある小さな社は摂社・末社神社の呼称として用いられています。
との事です。詳しくは 神社本庁のHP よりご確認下さい。
▼ 潜龍園神社 鳥居 ▼![]() |
▼ 潜龍園神社 拝殿 ▼![]() |
稲荷大明神
満島稲荷大明神
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霊丘神社前にある池の横から千本鳥居が続いています。進んで行くとそこには満島稲荷大明神の社。 しかしもう屋根とか厳しい状態になっています。途中にある石灯籠には文化四年(1807)の文字が! いつもは中に入っていましたが今回は入らずにパシャリ! |
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稲荷神社の石祠
▼ 階段を上って ▼![]() |
満島稲荷大明神の社からすぐ近く(トイレ反対側)に赤い鳥居。その奥の階段を上っていくと赤い鳥居が二本ある石祠が見えて来ます。
文字が読めないのでとりあえず稲荷神社として紹介しておきます。 |
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豊田稲荷・大川稲荷
直ぐ側に鳥居はありませんが石灯籠がある社がへと近づいて行きます。
壁・屋根とも厳しい状態ですね。
豊田稲荷・大川稲荷と言う文字を読む事ができました。 |
▼ 社 ▼![]() |
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島原護国神社
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グラウンドを挟んで海側の小山へと行くと島原護国神社があります。二年程前には朽ちかけながらも説明の看板があったのですがそれも現在では見当たらなくなりました。
以前の写真が残っているので分かる文字と共に下に記しておきます。 |
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島原護国神社の由来
近代日本の礎となった明治維新は幾多の人士の献身と犠牲によって築きあげられました、明治元年(一八六八)の奥羽の役に出陣して戦没した、磯野波蔵員定、小澤
文十郎定明、木下鉄之助…重賢、高徳之進(元影の四士の慰霊、顕彰のため、…宮山(現社地)に社祠を設け、墓碑を建て、明治五年五月に鎮座祭を行いました、明治
七年には祭杞修繕ともに官費で支弁する官祭となりました、そして社号も招魂社から官祭招魂社と変わり明治三十三年には、天誅組や天狗党に加わり殉難した尾崎●五郎靖、保母建景光、伊藤盉荒●融、それに日清戦役に戦没した、松尾才蔵、高木清太郎の五柱を合祀しました、越えて昭和十四年には島原護国神社と社号も改まり、祭儀もおごそかにかつ盛大に行われていました、ところが、第二次世界大戦の敗戦により制度も世運も急変し、官修墳墓は、第一国民学校の郷賢祀とともに奉祀さられし同校出身戦死者碑名も小山に移しました、それがいつともなく無断で本光寺境内に移されました、その事績を記し英名を永く伝えるため、昭和五十七年に有志があい計り、奥羽役殉難之碑を建●し、あわせて境内地の整備を行いました。
さび等で読めなかったり、また誤植があるかもしれませんがご容赦を!
その他の施設等
▼ グラウンド ▼![]() |
道路側に約50台と体育館前に約20台そして相撲場側に10台程度の駐車場があります。
各種大会がある時は駐車場が満杯でそれらと関係なくテニスなどをしに来た時に非常に困ってしまいます。 車を停める場所をどこかに確保してほしいものです。 |
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▼ まだ紅葉が… ▼![]() |
師走なのにまだ紅葉が残っているのが不思議な感じがしています。 中央児童遊園となずけられた子供が遊べる場所がありC1201という機関車が置かれています。
すぐ近くに島原半島に鉄道網を整備された実業家・政治家そして初代島原市長植木元太郎像があります。 |
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