島原市中堀町 江東寺
江東寺
島原市一番街アーケードに正面の入り口があります。裏側から入り境内にスクーターを停めて正面入口にに伺った時に手を合わせてお祈りされているお母さんがおられました。
有馬晴信の弟・宣安明言和尚が永緑1年(1558年)北有馬に開山。寛永1年(1624年)島原城主・松倉重政はここを菩提寺と定め江東寺と社名を改め現在に至りました。
▼ 江東寺由来書 ▼![]() |
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① アーケードより山門 ② 山門右側の石像 ③ 山門左側の石灯籠と石造 ④ 江東寺 山門 |
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▼ 釣鐘と十徳延命地蔵 ▼![]() |
山門をくぐると右側に大きな釣鐘の建物が見えます。その右側に十徳延命地蔵。
すぐ側に観音堂が有りますが扉が閉まっており中がどうなっているのか分かりませんでした。
その横には水子地蔵がありました。 |
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江東寺本堂(正面より)
涅槃像(ねはんぞう)
昭和32年(1957年)板倉重昌と松倉重政の霊を供養するために涅槃像を建立。足の裏に大法輪の相が日本で最初に刻まれているとの事。
この涅槃像の台座は歴代住職の納骨堂となっています。
▼ 涅槃像 ▼![]() |
▼ 足裏の紋様 ▼![]() |
板倉重昌と松倉重政の墓
▼ 松倉豊後守重政公墓 ▼![]() |
寛政4年(1792)の噴火災害で流出した墓を文政11年(1828)に再建されたものです。
半分にかけている墓石が最初の墓で災害の復旧時に掘り出されたものになります。 |
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▼ 板倉内膳重昌公墓 ▼![]() |
寛永十四年(1637)島原の乱鎮圧の上使として派遣。同十五年に戦死した板倉重昌の墓は寛永四年(1792)の眉山崩壊で土中に埋もれ行方不明。
文政五年(1822)井戸を掘っていた地中から発見されて現在に至っています。 |
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地元、島原の歴史上重要な「島原の乱」に関わった二人はさらに「島原大変」と言われる雲仙岳の噴火に伴う眉山崩壊に関わっています。
そういった歴史を思いながら島原にお越しの際はここ江東寺へと来てみてはいかがですか? |