令和四年師走、島原武家屋敷
島原武家屋敷
島原城の西側(山側)に70石以下の徒士屋敷が約700戸が軒を連ねていたとの事で現在は「武家屋敷町並み保存地区」として保存されいます。
真ん中に水路がある延長約400mの道に山本邸、篠塚邸、鳥田邸が無料開放されています。
また山本邸の横に島原市の売店がありましたが現在は休憩所(トイレ有)となっています。
またこの近くに無料の駐車場(約20台分)が用意されているので利用下さい。
場所:Googleマップ
駐車場から30mほどの所に「武家屋敷」の案内がありそこから右の小道へと入ります。
その小道を20mほど進んだら左手に中央に水路がある小道が見えてきます。
飲用できませんとの案内は書かれていますが透き通った水が道の真ん中を流れる小道が見えておりここが「武家屋敷町並み保存地区」となっています。
武家屋敷 山本邸
門から入ってすぐの所に山本邸の案内が四ヶ国語でされています。
現地案内文抜粋
5代繁親氏は寛政2年(1790)に一刀流の免許皆伝、文化元年(1804)には荻野流鉄砲術師範、文化8年(1811)大銃術の免許皆伝を得て、代々重職を務めました。
17石2人扶持で、門構えは最後の城主忠和公から特別に許されたものであります。
大正初期に田園地帯が急増し当時の通水が四分の一程度に減少。さらに伝染病が流行り多数の患者が出ていました。
第八代目当主秀左右は現状を憂慮し井戸掘りに着手。大正六年五月に完成をみたので六五の井戸と命名。
井戸のそばを通って裏庭へと回り込みます。庭木の奥から藁ぶき屋根の建物をパシャリ!
▼ 台所 ▼![]() |
▼ 裏庭に回って ▼![]() |
武家屋敷 篠塚邸
寛文9年(1669)丹波福知山5万石から7万石島原城主として移された松平主殿頭忠房に従い来たとの事。13石2人扶持で郡方祐筆(書記)や代官などを務めた。
この時期にここ武家屋敷に来るのは篠塚邸の庭にある桑の木の黄色い葉を目当てとしています。
建物の中にある通路を通って行くと…
桑の木の枝が無い!なんでか枝打ちというか幹も切られておりとても残念な状態です。
日照権なんかの問題でもあったのかな?木の傍にあった桑の案内も塀に立てかけられている感じとなっています。
▼ 枝打ち?されていました ▼![]() |
▼ 過去写真 ▼![]() |
武家屋敷 鳥田邸
鳥田家は藩主松平氏の草創以来の古い家柄で、藩主の転封にともなって三河国吉田、丹波国福知山と転じ、寛文9(1669)年、ここ島原に入った。
歴代地方代官・郡方物書などを勤めたが、幕末には御目見獨禮格で7石2人扶持を受け、材木奉行・宗門方加役・船津往来番などの重職についた。
ここ武家屋敷鳥田邸は民家の一部分を開放して見学できるようになっています。
進入禁止部分がありますのでご注意下さい。
昔懐かしい五右衛門風呂があります。そして台所を見てみると猫発見!
首輪をしているので飼い猫だとは思います。人懐っこいようで足元に来て体を摺り寄せていました。
▼ 五右衛門風呂 ▼![]() |
▼ 台所…の猫 ▼![]() |
武家屋敷休憩所(島原市役所武家屋敷売店)
鳥田邸の正面に赤い幟が出ています。武家屋敷柚子庵という喫茶店との事です。すみません入った事が無いのでその位の情報しかありません。
戻り路になると太陽が背になる位置になり青空をきれいに写すことができました。
少し歩くと民家の敷地から銀杏の葉の黄色がとてもいい感じで見えました。
最初行った山本邸のすぐ横に以前は市役所の武家屋敷売店がありました。
現在は売店が無くなってしまったようで島原のパンフレットなどが置かれている休憩所となています。この場所の現在の正式名称が分からないので個人的に武家屋敷休憩所と表しています。
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水神祠由来によると…
島原城築城時、多くの死傷者が出たり涌水が多く難工事となりました。三会村にあった水神祠を城下に移し工事の無事を祈らせたとの事。
この建物は明治七年島原城が廃城になったその用材を社祠に利用したものだとの事でした。
古丁水源
特に何があるわけではないのですが古丁水源の案内が経っています。水源の周りには新しく柵が設けられていました。
またベンチが設けられていました。すぐ傍にある紅葉がいい色で目を楽しませてくれています。
場所:Googleマップ
▼ 古丁水源 ▼![]() |
▼ ベンチと紅葉 ▼![]() |