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時鐘楼
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時鐘楼と島原武家屋敷

2019年8月17日 公開

時鐘楼

時鐘楼

時鐘楼(じしょうろう)

 島原藩主松平忠房公は、「民に時刻を知らしめ、これを励行せしむることは政治の搖動である」として延宝三年(一六七五)豊後高田の治工藤原正次に巨鐘を鋳造させ、この地に鐘楼をたてて、時間ごとに撞き鳴らし時刻を知らせました。

 以来、二百七十年間島原の人たちにて「おかみの鐘」として親しまれ生活にとけこんでいた鐘楼も太平洋戦争下の昭和十九年、長い歴史の余韻を残したまま供出されました。

 昭和五十五年、志ある人たちの希いと浄財をもとに復元されましたが、その銘文紋様は、日本彫刻界最高峰北村西望先生の労作によるものです。 ※現地案内文より

 

 

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時鐘楼 階段を上り鐘の近くまでは行く事が出来ます。ただ鍵がかかった柵が用意されているのでその隙間から鐘をパシャリ!

 

 島原商業高校の北側からの細い道沿いにあります。(googleストリートビュー

 車を停める場所は無いのでご注意下さい。

 

 

 

島原武家屋敷

 昭和52年(1977年):市の町並み保存地区(武家屋敷街並み保存地区)指定

 平成15年(2003年):都市景観大賞「美しいまちなみ賞」大賞受賞

 

島原武家屋敷 水路

 

 約400mの石垣と街路の中央に湧水の水路がある島原の武家屋敷。松倉重政の島原城築城期(1618年~)に整備されたと言われています。

 

 見学可能な山本邸・篠塚邸・鳥田邸には以前当時を模した人形が飾られていましたが今年2月のひなめぐり時期に行った時にはなく、ひな人形を飾るのでスペースの問題でかたずけているものと思っていました。

 しかし、今回もなかったので撤去されたようですね。

 

 

 

山本邸(明治元年 建設)

 山本家の初代佐五左衛門は、忠房公の先代三河の吉田城主忠利公時代から家臣となり、寛延2年(1749)、5代忠衹公の宇都宮移封、安永3年(1774)、6代忠恕公の島原への所管の所替に際して随行し、その簿幕末まで前後13代の城主に仕えました。山本家は城主からの信任が厚く明治以降は悟郎氏秀武氏と合せ10代続いています。

 5代茂親氏は寛政2年(1790)に一刀流の免許、文化元年(1804)には萩野流鉄砲術師範、文化8年(1811)大銃術の免許皆伝を得て、代々重職を務めました。

 17石2人扶持で、門構えは最後の城主忠和公から特別に許されたものであります。 ※現地案内文より

 

 

島原武家屋敷 山本邸 島原武家屋敷 山本邸

 

島原武家屋敷 山本邸

 

島原武家屋敷 山本邸

 

 

 

篠塚邸

島原武家屋敷 篠塚邸 この屋敷に住んでいた人は姓を篠塚と言い、代々順右衛門を称し祖先は三河深溝であるが、寛文9(1669)年、松平主殿頭忠房が丹波福知山5万石から7万石島原城主として移されたときに従ってきて、明治初期まで11代、8石から13石2人扶持を給され、主として郡方裕筆(書記)や代官などを務めた。屋敷坪数はこのあたりすべて3畝(90坪)である。  ※現地案内文より

 

 

島原武家屋敷 篠塚邸 島原武家屋敷 篠塚邸

 

島原武家屋敷 篠塚邸

 

島原武家屋敷 篠塚邸

 

 

 

鳥田邸

島原武家屋敷 鳥田邸 鳥田家は藩主松平氏の創世記以来の古い家柄で、藩主の転封にともなって三河国吉田、丹波国福知山と転じ、寛文9(1669)年、ここ島原に入った。歴代地方代官・郡方物書などを務めたが、幕末には御目見〇〇格で7石2人扶持を受け、材木奉行・宗門方加役・船津往来番などの重職についた。このあたり一帯は中・下級武士の屋敷で、一戸当たりの敷地は3畝(90坪ずつに区切られ、家ごとに枇杷、柿、柑橘類などの果樹を植えていた。道路の中央を流れる清流は、往時の生活用水路である。  ※現地案内文より

 

 

島原武家屋敷 鳥田邸 島原武家屋敷 鳥田邸

 

島原武家屋敷 鳥田邸

 

島原武家屋敷 鳥田邸

 

 

 

武家屋敷売店

 山本邸の隣に島原市役所の売店が設けられています。島原のお土産また休憩にお立ち寄りください。トイレも完備されているので生理現象の時も安心です。

▼ 水神祠 ▼島原武家屋敷 水神祠 ▼ 売店 ▼島原武家屋敷 売店

 

 

 

吉田松陰来訪の地

 ここは島原藩士・宮川度右衛門の屋敷跡です。この一帯は鉄砲町の一角にあたり、幕末の「島原藩士屋敷図」にも、ここが宮川邸であったことが記されています。

 幕末期の当主・宮川度右衛門守興(一七九四~一八五九)は、種子島流萩野派の砲術師範として、多くの弟子を育てました。

吉田松陰来訪の地 嘉永三(一八五〇)年十二月四日、長州藩士・吉田松陰(一八三〇~一八五九)が、兵学の研鑽の旅の途中にここを訪れております。

 松陰は、この旅について記録した「西遊日記」の中に、(訳・宮川が言うには、直発砲でなければ功を成すことは無い。そのため、近ごろはカノン砲を造る)と、この日守典から聞いた話を書き残しています。  ※現地案内文より

 

 

 

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