世界文化遺産 原城跡
南島原市南有馬町 原城跡
公共交通機関で言うと島鉄バス原城前バス停となります。バス停側にはバス4台、乗用車8台の駐車場も用意されています。
また中に入って原城温泉「真砂」の駐車場も利用できます。原城本丸跡までどちらからも1kmって所です。
コロナ前に行った時は真砂から無料シャトルバスが出ていました。無料電動アシスト付き自転車のレンタルもあるそうですよ。
場所:Googleマップ( 原城跡駐車場 / 原城温泉「真砂」 )
国道から200mほど入った三の丸跡付近に 板倉重昌碑 があります。
板倉重昌は深溝藩(愛知県三河地方)の藩主であった人物。島原・天草一揆の時、幕府の第一次上使として派遣され幕府方連合軍の総大将。寛永15年(1638)三度目の総攻撃時、自らも突入し51歳で戦死を遂げました。
この碑は孫の重道の依頼により延宝9年(1681)に制作。しかしその時は碑の建立には至らず、重昌の死後159年目にあたる寛政9年(1797)、子孫の板倉勝長らによって重昌が戦死したとされるこの場所に建立されたとの事。
途中で原城温泉「真砂」方面へと続く分かれ道を越え300mほど進んだ場所の二の丸跡には「世界遺産 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」と書かれた碑が新しく作られていました。
過去記事により2020年4月~2021年3月の間で出来たモノのようですね。
さらに300mほど進むとちょっとした広場みたいなところがあり本丸跡へと到着しました。道沿いに30mほど桜の木の向こう側に原城跡総合案内所(プレハブ造り)があります。
広場のすぐ横ある数段の階段を上った所にお地蔵さんがあります。ホネカミ地蔵 とありました。
![]() |
![]() |
明和3年(1766)、北有馬村願心寺の住職と南有馬村の庄屋の方が原城跡に残されていた遺骨を敵味方区別なく拾い集め供養した地蔵塔との事でした。
裏側にも一体の地蔵がありその台座前に毘沙門天でしょうか?の像がありました。
ホネカミ地蔵から20mほどにいくつか並んだ石碑後ろ側が見えています。
行きづらくはあるのですが回り込んで正面へと行ってみました。特に案内は無く碑の文字は達筆すぎてよく分かりませんでした…
下写真の後ろに見える桜の木の左側が原城跡総合案内所という位置取りです。
現地案内には…
一揆の後、幕府軍によって壊され、埋められていましたが、発掘調査で土砂や壊された石垣の石材を取り除いていくと、本来の石垣や階段、水路の跡などが確認されました。この地点では城の壊された工程が分かるよう、三段階でしめしています。
原城本丸には沢山の桜が植えてあります。満開は越えた感じではありますがまだ十分見ごたえのある桜であったので一安心でした。
この後に行こうと思い近づいた日野江城跡の桜は散ってしまっていたようで今年は寄らなかったんですよ…
現地案内には…
原城本丸へと繋がる最後の門です。入口の空間へ入ると建物の基礎となる礎石が並んでおり、櫓門が建てられていたと考えられます。櫓門を抜けるとその先に階段が設けられており、城内へ続いています。他の門跡と同様に一揆後に破壊され、礎石の一部がなくなっており、階段の踏石はわずかしか残っていません。
本丸跡
少し開けた空間? 何もない場所?に本丸跡の案内がありました。
一揆軍の総大将である天草四郎など指導者が立て籠った所です。一揆後は幕府軍によって建物や石垣が徹底的に破壊され地中に埋め尽くされたそうです。
現地案内には…
ここでは発掘調査によって大きく張り出した石垣の跡が発見されました。調査時には石垣の上部や隅が大きく破壊され、土砂や石垣の石材で埋め尽くされていました。宣教師が残した報告書には三層の櫓が建てられていたことが記されており、築城された時にはこの場所に天守相当の建物があったと推定しています。
端によって有明海を見ると眼下に桜の木があり遠くには天草諸島を見る事が出来ます。
空と海の青に桜のピンクがとてもいい感じでこの時期の風景が心に残るモノがあり大好きな場所の一つです。
▼ 石像と石碑 ▼![]() |
▼ 二つの石碑 ▼![]() |
▼ 桜並木 ▼![]() |
櫓台跡近くに石碑がいくつかありますが案内も無く文字が読めずこれが何なのかが分かりません…
各所に金属で出来た網型のゴミ箱があるのですがすべて反されており利用できない状態です。この時期だけの処置なんでしょうかね?
▼ 原城跡の碑 ▼![]() |
▼ 海側にあるあずまや ▼![]() |
北村西望作の天草四郎像の足元には昨日か今日置かれたであろうと思われる花束がありました。
現地案内には…
この碑は、西有家町にある民家の石垣の中にあったものをこの場所に移したものです。
天草四郎
小西行長の家臣、益田甚兵衛の子で、本名増田四郎時貞といい洗礼をうけてジェロニモと称し、籠城中に書いた「四郎法度書」にはフランシスコと署名しています。恵まれた幼少期を送り、教養も高かったといわれ、また長崎へ行って勉強しているとありますが、詳細は不明です。
島原・天草一揆に際し、若干15才という若さで一揆軍の総大将として幕府軍と対立しました。一揆軍は88日間この原城に籠城したが、圧倒的な幕府軍の総攻撃により終結しました。四郎はこの本丸で首を切られ、長崎でもさらし首にされました。
この場所から海側の柵に近づいて行くと三体の後ろ向きの像が見えます。
有明海に浮かぶ湯島を向いて立っています。別名「談合島」と言われるこの島は島原・天草の民が一揆をおこす前に集まった場所と言われています。
現地案内には…
原城本丸に入る三ヶ所の門のひとつで、発掘調査で門と思われる礎石やその両側の石垣、階段などが発見されています。
他の門跡と同様、島原・天草一揆の後に幕府軍に破壊され、埋め尽くされていました。破壊の激しさを示すよう階段の踏石には抜け落ちが目立ち、石垣は最大でも1.7m程の高さしか残っていません。特に石垣の隅角は、両側とも根石1石のみが残る状況です。
海岸沿いに遠く平成新山や眉山を見る事が出来ました。
階段を降り進んで行くと少し窪んだ場所に桜の木が一本ありその奥には平成新山や眉山が見えています。この一本の桜って感じがとても素敵に感じてしまうのは字も度びいきなんでしょうかね!?
現地案内の一部に…
原城ではいったん突き落とした築石を前方へ引きずり出し、再び石垣を突き崩すといった作業が繰り返されました。破壊された石垣は、背後の礫と土砂によって埋め尽くされる徹底ぶりでした。
現地案内の一部に…
原城跡では本丸のみに石垣が確認され、ほかの曲輪は石垣を伴わない土造りとなっています。原城は17世紀初頭に築かれた近世の城郭ですが、中世城郭の名残りがみられる点も大きな特徴です。
一周してきて南島原市観光案内をパシャリ!
本丸に来て一周するのに大体15分程度でした。参考にして頂けると幸いです。
畑の所に芝桜が咲いている一角があったんもでそこもパシャリと撮影です。
過去記事を紹介
・南島原市南有馬町 原城跡(2022年4月4日 公開)
・潜伏キリシタン関連遺産 原城(2021年3月23日 公開)
▼ 南島原市観光案内 ▼![]() |
▼ 芝桜 ▼![]() |