島原復興アリーナ 慰霊碑
島原復興アリーナ
島原復興アリーナは雲仙普賢岳噴火災害からの復興のシンボルとして作られた多目的複合施設。よほどの大会でない限り余裕ある500台分の駐車スペースが島原半島では稀有と言えるでしょう。
何度か記事にしているのですが午前中ばかりで慰霊碑が逆光でした。今回は午後がらで慰霊碑を綺麗に撮りたいなと思っています。
大火砕流があった6月3日ではないですが犠牲になられた方への哀悼の意を表しつつ記事にさせて頂きます。
▼ 島原復興アリーナ ▼![]() |
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消防殉職者慰霊碑
一九九〇年(平成二年)十一月十七日、雲仙・普賢岳が山頂から白煙を上げ、一九八年ぶりに噴火活動を開始した。
はじめの頃は、穏やかであった活動が徐々に活発になり土石流や火砕流が発生したため、避難勧告が発令され、消防団員が昼夜を問わず、監視活動や住民の避難指導に当っていた。
翌年六月三日、午後四時八分発生した、予想もしなかった大火砕流に飲み込まれ、監視に当っていた消防団員十二名を含む四十三名の尊い人命が奪われるという大惨事となった。
我々消防団員は、同胞の団員が殉職したことに対し、悲痛な衝撃を受け、残された遺族のことを思うと心を痛めるばかりであった。
我々は殉職した消防団員の崇高な郷土愛と不屈の消防精神を消防人の鑑として受け継いでいかねばならないと改めて決意した。
殉職した団員に対しては、二階級特進がされ、国からは著しい功績が認められた死亡叙勲が授与された。
一九九六年(平成八年)六月、雲仙・普賢岳の噴火活動の終息を迎え、地域防災のため殉職した団員の勇敢な行動をたたえ、この功績を末永く顕彰し、安らかなご冥福をお祈りするとともに、後に続く消防人の心を奮い立たせるため、この慰霊碑を建立する。
なおこの慰霊碑は全国の消防関係等の皆様から寄せられた心温まる義捐金を浄財にさせて頂いた。
一九九九年(平成十一年)十一月十七日
島原消防団長 下田信男
殉職者の碑より見る復興アリーナと眉山
雲仙普賢岳噴火災害従事装備について
平成3年6月3日午後4時8分の大火砕流に始まる雲仙普賢岳噴火災害に際して、自衛隊は直ちに出動、1658日間という長期にわたり、警戒監視活動、捜索、輸送、遣家族視察支援、各種学術偵察支援などに活躍し、平成7年12月16日に撤収しました。
島原市民は、「安心と勇気をありがとう」の言葉で自衛隊を見送りました。
共に困難で危険な職務に従事した島原消防団の消防殉職者慰霊碑前において、今は静かになった平成新山に向かい合う姿で展示し、この活躍を永く伝えようとするものです。
平成19年6月3日 島原市
輸送ヘリコプター(V-107A)
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① コックピット ② 輸送ヘリと奥の慰霊碑 ③ 輸送ヘリと遠くに平成新山 ④ 輸送ヘリ全体(斜めより) |
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60式装甲車
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① 装甲車の後部 ② 後部の上側 ③ 車体から出ている銃?の所 ④ 装甲車正面よりと奥の慰霊碑 |
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噴火がひどくなり周りの人が避難し人が少なく心細い時自衛隊の皆さんがいる事での心強さと、危険な場所での任務には頭が下がる思いでいっぱいです。
狭い田舎です。殉職された消防団の方との関係者は少なくありません。みなさんが心安らかであられますよう…
すぐそばには海があり天気もよく釣り人が結構おられました。でももっと青空が綺麗な時にまた来たいと思います。
ちょうどオーシャンアローが見えたので急いで撮影しました。