雲仙市千々石町 橘神社
雲仙市 橘神社
地元千々石の出身で日露戦争に従軍、戦没した橘周太陸軍中佐を祀る神社。桜の名所としてもまた県内有数の正月参拝者数として知られています。
大鳥居の奥に約40台程度分の乗用車用駐車場がありまた手前にも大型バス3台と乗用車数台分の白線が引かれていました。
ここは境内を含めて橘公園としても整備されています。
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▼ ギネス!千々石の大門松 ▼![]() |
21世紀を世界一でお祝いしようという発想から始まりギネスに「門松」という新たなカテゴリーを創ってしまったそうです。「清福招来」祈念しながら毎年建立しているとの事!
ギネス記録認定:2001年6月18日 9.865m
▼ 橘中佐像(縦画像) ▼![]() |
▼ 橘周太中佐説明文 ▼![]() |
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橘中佐は慶応元年(1865)千々石町に誕生。東宮武官(大正天皇の教育係)、幼年学校長等を歴任し連隊大隊長として日露戦争に参戦。 明治37年(1904)首山堡の大激戦において戦死。 現地案内文より抜粋
橋の名前を見ると軍神橋とありました(昭和13年) |
参道は広く左右に桜の木が並んでおり春は綺麗な桜の姿が思い浮かばれます。途中右手に土俵がありました。さらに進むと中学校がありそこから右に道は折れます。
多少道幅は狭くなりつつも佐痛には灯篭が並び階段を上がると正面には鳥居が左手には大きな授与所の建物が見えて来ます。
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① 広い参道(軍神橋を越えて) ② 雲仙市千々石相撲場 ③ 千々石中学校 ④ 授与所近辺 |
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さすがにお正月の参拝が多いと言われるだけあり授与所が大きくスペースが広く取られています。
天皇陛下御在位三十年の文字が目に入りました。 来年は陛下の譲位(平成31年4月30日)があるのですよね。
昭和から平成そしてその次の時代がもう目前。 |
▼ 手水舎 ▼![]() |
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手水舎の近くに鳥居があり御幣(ごへい)が置かれていたので祈祷所らしき場所がありました。また絵絵馬奉納所には沢山の絵馬があり参拝者の多さがうかがえますね。
後で気づきましたが鳥居の神額を写していませんでした。頭上あまりにも高かったので意識がその奥の拝殿と何やら作業されている方の方へ向いていたようです。
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① 祈祷所 ② 祈願絵馬奉納所 ③ ここにも大きな鳥居 ④ 拝殿 |
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お参りするところもさすがにデカいですね!左右も幅があり参った後にはどちらへも抜けやすくなっています。
仕切の中には広いスペースに椅子が並べてありさらにその奥には神鏡と御幣が見えます。 |
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帰りがけに拝殿から鳥居を裏側から写しました。やっぱり青空がいい!
幟を立てているのか撤収しているのか分かりませんがそんな作業中の軽トラも写っています。
拝殿に向かって右側に石碑が見えます。芝生の広場を抜けて近づいて行くと釧香泉之碑と原爆慰霊碑がありました。
_____ 釧雲泉(くしろ うんぜん)
釧 雲泉 [宝暦9年(1759年) – 文化8年11月16日(1811年12月31日)]は、江戸時代後期の南画家である。旅に生き、酒をこよなく愛した孤高の画人として知られる。
号の雲泉は雲仙岳に因んだ。名を就(じゅ)、字を仲孚(ちゅうふ)、通称 文平、別号に、魯堂(ろどう)、岱就(たいしゅう)、岱岳(たいがく)、六石(りくせき)、磊落居士(らいらいこじ)などがある。 Wikipedia より _____
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① 釧雲泉之碑(縦画像) ② 原爆慰霊碑 ③ 参道帰り道 ④ 軍神橋を逆から |
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橘公園
▼ 橋の上から上流側 ▼![]() |
神社からの帰り道、軍神橋の右側に池の方へ降りる結構急な階段があります。
川の両端に桜が続いていますね。桜の時期に来たことはありませんがとても綺麗そうですよ。
川には飛び石があり対岸へ渡れるようになっています。 |
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▼ 上流側から橋 ▼![]() |
橋の下を通り上流側へ。 さらに橋を渡り左側へ行くと水路があります。川に落差があり滝のように落ちていました。
水路の近くまで行き上流から下流へと流れを写して橘公園の紹介を終わります。
平日だから貸切状態でした! |
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