霊丘神社 七五三詣
島原市弁天町 霊丘神社
七五三の時期になったのでその案内が入口の所にされていました。「十月より十一月末まで七五三詣を執り行っておりますのでご参拝下さい。」との事です。
国道251号線、今年春にOPENしたイオン島原店がある近くの交差点から海側へと進むと線路を超えたところに鳥居が見えてきます。
明治三十五年(1902)建立の一の鳥居。神額は「霊丘神社」となっています。
場所:Googleマップ
一の鳥居と中央児童遊園の間にある40mほどの狭い道路(車一台分なので対向車があると待たないといけません)を抜けると境内になります。
舗装されている所は近くのビジネスホテル専用の駐車場とされているようですその奥の未舗装の場所へ車は駐車可能となっています。
島原の乱の後、当地を治めた高力氏により東照宮が勧請されたことに始まる。1883年(明治16年)には高力氏の後を受けた島原藩主松平氏(深溝松平家)七代の霊を合祀し現在の名称になった。 _____
明治十六年(1883)建立の二の鳥居。こちらも神額は「霊丘神社」ですね。
お正月にはこのあたりに出店が何軒かでています。
私が子供の時の初市ではこちらまで店が出店していたものでしたが最近はそこまでないのが少し寂しく感じてしまいますね。
そして少し階段を上った所の左側には明治維新百年記念碑・鎮座百年社殿改修記念碑・平和祈念之碑があり右側には皇居奉仕の記念碑がありました。
▼ 各種記念碑 ▼![]() |
▼ 皇居奉仕の記念碑 ▼![]() |
そして十段弱の階段を上って拝殿をパシャリ!
階段を上ると左側におみくじ結び所、そして右側には授与所の建物が見えています。
また拝殿前には一対の狛犬が鎮座。口を開けているのか閉めているのかわかりずらい狛犬なんです…
▼ おみくじ結び所 ▼![]() |
▼ 授与所 ▼![]() |
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孫娘の健よかなる成長と二人目の孫が無事生まれてくれる事を願って…
拝殿右側、授与所側から奥に行って本殿をパシャリ!
この横に焼却炉があるのでそこからの煙が境内に漂っているものと思ったら境内の後ろ側で落ち葉なんかを燃やしているようでした。
末社 蚕霊神社
霊丘神社二の鳥居の後ろ左側へと20mの所に白い鳥居が見えています。
明治時代に島原半島では養蚕業が盛んだったとの事でそういったことからここに祀られているのだと思います。
その祠の後ろ側には霊丘神社の御祭神の説明や祭の日などが書かれた案内が設置されています。
ただ文字がかすれてきており残念なことに読み難い状態となっていました。
末社 潜龍園神社
これも霊丘神社二の鳥居の右側に並ぶように小ぶりな赤い鳥居が見えています。
柱に文字が刻まれているのですが読む事が難しい状態となっており建立年などが分かりません。
手水舎もありさらに手水の龍もあるのですが水が流れるようには見受けられません。
右側の多分阿形狛犬の顎が破損してない状態になっています。
拝殿の中には「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。おのれを責めて人をせむるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。」と徳川家康の遺訓が額に入れられ飾られていました。
末社 満島稲荷神社
これは末社になるのかよく分かりませんが近くにあるのでそのように紹介しています。
中央児童遊園と池の間から奥に進む道沿いに多数の千本鳥居が見えています。
ざっと二十本程度はありそうですが全部が昭和に建立されたコンクリ製の赤い鳥居です。
途中にある石灯籠には文化四年(1807)の文字があり二百年以上前のものでした。
社は屋根、床ともに穴が開いている箇所がありとても厳しい状態となっています。
開けられている扉ですが中はそれほど汚れておらず定期的に清掃されていることが伺えます。
それだけにこのままの状態なら少なくとも200年の歴史を持つこの神社がそう遠くない将来に倒壊するのではないかと心配です。
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