雲仙市 神代神社と稲荷神社
雲仙市国見町 神代(こうじろ)神社
県道131号線から神代小路伝統的建造物群保存地区の方へと続く小道の途中に鳥居が見えています。その前側に車一台分ほどのスペースがあるのでそこに停めて参拝。
最初の赤い鳥居の左側に神代神社と書かれた石碑がありその横面には昭和三十三年とありました。
場所:Googleマップ
同じく右側にある石碑には道政院稲荷神社とあり同じく横面に延亨四年とありますね。
参道の鳥居も石で出来たものと赤い鳥居が混在してあります。
建立年を見ると平成はもちろん令和という文字も見受けられるので今現在も多数の信仰を得ていることが伺えます。
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階段を上り終えると正面に「(史跡)鶴亀城跡と神代の由来」と書かれた案内がありました。
その中の一部を紹介
◎神代家の滅亡
天正十二年三月、島原沖田畷における有馬島津連合軍と竜造寺隆信軍との戦いで濃霧に乗じて南軍は一気に北軍の本陣を急襲し隆信討死、之と同盟していた神代貴茂も深江の砦より急ぎ、この城に戻っていたが多比良まで北上して来た南軍は、この城攻めの愚(湖と泥土)を知り一計を案じて貴茂に和議を申し込んだ。単独では勝てないと貴茂も仕方なく之に応じ従者をつれて和議の場所轟城に赴き和議書に押印した。南軍は一席の宴を張り夕刻貴茂一行の帰途これを犬の馬場(今の南部落)で伏兵により謀殺(天正十二年四月六日)今も古い墓が残っている。
天正十五年秀吉は島津討伐のため、大軍を率いて九州に下向、この時鍋島藩初代直茂は、秀吉の弁許を得て旧神代家の領地を神代分藩とした・・・幕末まで二八一年間。
その他の部分は下記写真を右側からクリックし拡大して読んでみて下さい。
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階段を上ると参道は右折して正面には道政院稲荷神社があるのですが左に折れて「学力向上・武道向上」と書かれた神代神社へと向かいます。
境内には緋寒桜や梅があるのでその開花時期(2月中旬~3月中旬)に来るとキレイですよ。
いくつか石灯籠があり古いもので明治九年(1876)とありました。
神額には「神代神社」と刻まれています。
建立年をと柱を見ると「天●十四年」と二文字目が分かりません。
最初に天が付く元号で14年があるモノは…
天文十四年(1545)、天正十四年(1586)、天保十四年(1843)があるようです。最後の天保十四年じゃないかと思います。
▼ 石の鳥居 ▼![]() |
▼ 拝殿 ▼![]() |
出産のための里帰りが終わり帰って行った娘の子。その二人の孫娘の健よかなる成長を願い…
拝殿の後ろへ右側から周って行きます。
石灯籠が四つあり見てみると天保十四年の文字が分かります。やっぱり鳥居と同じ時に出来たんでしょうかね?本殿にはワンカップのお酒がお供えされていました。
来る時は木に隠れて見えづらかったのですが左手側(拝殿に向かうと右側)に水道と奥に手水鉢がありました。
社殿に向かってみると右側の塀の外側に鳥居の残骸が多数積まれていますね。
またこの奥へと雑草が茂っていると行きづらいのですが進んで行きます。
ちょうど本殿の横あたりに「神代治部大輔貴茂公顕彰四百年祭歴史記念塔」と刻まれた石碑があります。
神代貴茂は天正十二年(1584)龍造寺方の武将として有馬・島津連合軍と沖田畷の戦いで合戦し敗北し有馬氏に降伏。
その後島津の人質として八代へ連行される。
いつ神代へ帰ったか不明ですが有馬氏との講和会議が行われその帰りに多比良氏や土黒氏の兵士など有馬側の兵士により暗殺されたとの事です。
道政院稲荷神社
「商売繁盛・家内安全」と案内された道政院稲荷神社へと向かいます。
正一位道政院稲荷神社の由来と書かれた大きな案内が設けられています。それによると道政院とは鍋島家八代茂興公の院号から来たようです。
▼ 鳥居 ▼![]() |
▼ 案内 ▼![]() |
拝殿の手前には一対の狐の像がありました。拝殿内を見てみましたが特に何も無いようですね。
緋寒桜がきれいだった時の過去記事を紹介
・雲仙市 神代神社と大神宮(2020年2月25日 公開)
▼ 本殿 ▼![]() |
▼ 改築記念碑 ▼![]() |