雲仙市 金刀比羅神社と牛馬主宰之神神社
雲仙市国見町神代 金刀比羅神社
雲仙市国見町神代の国道251号線沿いの交差点そばにある神社。
並行して鳥居があり左側には平成二十五年(2013)建立、神額には「金刀比羅神社」とある新しくできた鳥居。
旧鳥居がフェンスそばに設置されており由来が書かれていました。
金毘羅神社(創建の由来)記 森川太十郎
鶴亀城、向町側の出丸に小さなほこらがあった。再建しようという時、向町・須賀から、誘置願いがあった。たまたま、長浜の三木松が枯れてしまった。その跡地、長浜に建立す。
場所:Googleマップ
▼ 表(国道端より) ▼![]() |
▼ 裏(境内側より) ▼![]() |
拝殿の扉は締まっており開けることはかないませんでした。
後ろに廻っていくと本殿というか少し階段を上ったところに石祠が設けられていました。
ちょうど階段を上り終えた所位に蜘蛛の巣が張っておりその石祠のそばに近づくことができません。
石祠の扉も締まっておりどういったモノが祭られているのかよく分かりませんでした。
横を見るとバスケットのゴールがあり隣の神社拝殿が見えています。
牛馬主宰之神神社
金刀比羅神社のすぐ隣に並んである神社。鳥居の神額には「牛馬主宰之神」となっています。
距離的には20m~30mって感じでしょうかね?同じ境内の中で同じ程度の大きさなのでどちらが主なのかがよく分かりません。
案内によると…
芭蕉翁の句碑
この句碑は、文化十三年(一八一六)佐藤春喬(順兵衛)によって建てられたものである。俳聖「芭蕉」を思って次の一句を刻ませている。
「波の間や 小貝にまじる 萩の塵」
春喬は古都の生まれで神代鍋島藩に仕え、俳講師として江戸時代神代で俳句の黄金時代を作った人である。余暇を得ては諸国を行脚し、江戸でも著名な俳人と深い交流を持ち、門人も多かったという。
芭蕉は、九州を訪れたことはなく、元禄七年(一六九四)大阪で病没している。
ところが、この病が赤痢であったと言い伝えられ、やがて芭蕉の碑が赤痢の神(赤腹の神)として信仰されるようになり、赤痢が流行すると近郷近在の多くの人々が悪疫退散の祈願をするようになった。
長崎と芭蕉はなじみが深く、県下で十五ヶ所、芭蕉の追善句碑が発見されている。
▼ 拝殿 ▼![]() |
▼ 石祠 ▼![]() |
特に駐車場というものはないのですが後ろ側に車を二台程度は停めるスペースがありました。この日私はスクーターで言っています。
裏側から牛馬主宰之神神社と奥の金刀比羅神社をパシャリ!いい青空ですが長袖を着ないと寒い秋が深まった一日でした。