冬の今村刑場跡(お糸の墓)
島原市新山 今村刑場跡
大正三年(1924)に隣接する島原町と合併するまで島原村今村名とされている場所(現在の島原市新山)にあり明治三年(1870)まで使用されていた刑場跡。
近くに駐車場はありません。車での場合は島原総合運動公園の駐車場を利用して500m(10分弱)歩く必要があります。
場所:Googleマップ
道路からの入口に銀杏の木があり枝が半分切られていましたがいい感じの黄色の葉が見られるこの時期に来てみました。
また入口にある案内が昨年と変わり絵が入ったモノに新設されていましたよ。
_____ 現地案内の一部
今村刑場跡と殿様道路
江戸時代、島原村の中でも、この辺りは今村と呼ばれていました。「今村刑場」の名は、島原城を築城した松倉重政の頃の文献にも見られますが、そこでは重罪人のほか、徳川幕府のキリシタン禁制による弾圧で、イタリア人宣教師ピエトロ・バウロ・ナパルロの火刑をはじめ、多くの信徒が処刑されました。
一七九二年(寛政四)、眉山の大崩壊で今村はほぼ埋没してしまいました。その後、新たに刑場がこの地に設置され、一八七〇年(明治三)まで使用されました。また、ここには島原藩医市川泰朴らが医学発展のため、一八四四年(天保十五)に腑分け(解剖)を行ったところでもあります。その解剖図は今も市の指定文化財として伝わっています。
_____ ここまで
小道を10m程進むと供養塔が見えて来ます。横に「昭和三十九年八月 藤村建之」と刻まれています。
_____ 現地案内の一部
一方、刑場跡地が面するこの道は、島原藩における主要な道路(往還)の一つで、「往還」や「島原街道」「殿様(殿さん)道路」の言葉で今に伝わっています。
急な坂道や道路状況が悪いところは石畳を布いた痕跡も見られます。また、藩主が通行することがわかると、沿道の各村で掃除をするなど、地域で道を維持してきたことも史料からうかがえます。
時の流れと共に、現代の土地開発や道路整備によって、失われた景観や位置の推定が困難な箇所もありますが、地域の歴史として今後も語り継いでいきたい道です。
島原市教育委員会
_____ ここまで
さらに10mほど進むと「南無阿弥陀仏」と刻まれた碑が見えてきます。
横には「明治二十五年 ●七月修繕 ●●寺 管理所」とあり●はよく読めず何か文字が刻まれている事を表しています。
※明治25年 = 西暦1892年
明治3年(1870)不義不通との事で最後に処刑された人がお糸と言われる方で通称お糸の墓とも呼ばれていました。
またその頃に地獄が噴出したと事で雲仙の地獄には「お糸地獄」と呼ばれる場所があります。
奥から入ってきた方向を見るとイチョウの黄色い葉がきれいに見えていましたよ。
このすぐ横は保育園となります。
私も、また子供たちもこの保育園にお世話になりました。もしかすると孫もお世話になるかもしれない保育園です。
園児の明るい声を聴きながら過去にはどういった事が行われていた所なのかと考える事も必要なのかもしれません。