今村刑場跡、秋。
今村刑場跡
この処刑場は藩主の松倉重政が島原城築城の頃からだそうで明治3年(1875年)まで使用されていた場所です。
以前、雨の日に行き一度紹介しましたが本日は秋晴れの夕方にかかるかなという時間に来てみました。
前回の紹介では墓をアップで写し過ぎたという反省から全体が分かる構図での写真を心がけています…
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供養塔道脇の看板から10m程行くとまずは供養塔があります。 裏に彫られている文字は「昭和三十九年八月 藤村建之」
その声で少しでも慰められるといいのですけど。
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表に「南無阿弥陀佛」と大きく書かれていて
裏に「明治二十五年 ◎七月修繕 安養寺 管理所」と書かれています。
◎は火偏に禾 → 「 火禾 」って漢字ですが読めません。
横にも文字が刻まれていましたが後で見たら全然見えませんでした。時間が取れたら確認したいと思います。
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お糸の墓
ここは明治3年まで利用されその最後の処刑が、お糸という方だったという事で通称「お糸の墓」と呼ばれています。このお糸と雲仙地獄のお糸地獄は関係があり現地の案内を紹介しますね。
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その昔、島原城下で、たいへん裕福な生活をしていたのに密通をしたあげく、 夫を殺してしまったお糸という女がいました。
お糸が処刑されたころにこの地獄が噴出したので 「家庭を乱すと地獄に落ちるぞ」という戒めを込めてこの名前がつけられたと云われます。
雲仙地獄の案内板 _____