潜伏キリシタン関連遺産 原城
南島原市南有馬町 原城
2018年6月に世界遺産登録されました。私が高校生時代に行ったきりなのでもう〇十年ぶりに行ってみる事に!
以前と違い見晴らしがよい道が出来ていましたが…なんだか変な方向へと誘導されています。
海岸近くの原城温泉駐車場に車を停め近くの案内を見ると850m… 結構な距離だと少し戸惑いましたが無料のシャトルバスが30分間隔で出ていました。
▼ 石垣の上が正規ルート ▼![]() |
スポンサードリンク |
_____ 原城
島原半島の南部に位置し、明応5年(1496年)、日野江城の支城として有馬貴純によって築かれた。有明海に張り出した丘陵にあり、本の丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されていた。
有馬氏が日向国延岡城に転封となった後の、元和2年(1616年)に松倉重政が日野江城に入城するが、一国一城令の影響もあり不便な日野江城を放棄し島原城を築城した。この際に原城も廃城となり、石垣や構築物も転用されたとされる。
寛永14年(1637年)から寛永15年(1638年)にかけての島原の乱の後に、幕府は原城跡に残存する石塁などの破却を行っている。 wikipediaより _____
▼ ホネカミ地蔵 ▼![]() |
島原の乱の死者を供養するため約130年後の明和三年(1766)建てられたホネカミ地蔵。
埋門跡(うずもんあと)は原城本丸に入って2つ目の門跡になるとの事。
海を見渡れるとても見晴らしがいい所です。 |
|
|
宣教師の残した報告書に三層の櫓が立てられていたとの事で天守相当の建物があったと推定されているそうです。 確かに見晴らしが非常にいいですよね。
文字が読めない石碑石像が四点ありました。 |
▼ 櫓台跡(天守台跡) ▼![]() |
|
|
▼ 終りかけの桜と ▼![]() |
島原の乱に際し、若干15才という若さで一揆軍の総大将として幕府軍と対立しました。一揆軍は88日間にこの原城に籠城したが、圧倒的な幕府軍の総攻撃により終結しました。四朗はこの本丸で首を切られ、長崎でもされし首にされました。 現地案内文より |
|
|
ちょうど天草四郎時貞の墓碑の奥、柵の向こうに海を向いている3体の像がありました。多分真ん中が天草四郎を模した像ではないかと思います。
![]() |
いくつかの石碑が並んでいました。そして何よりも天草四郎像!島原城で見慣れている北村西望作の天草四郎像がありました。 確かに島原の乱と言っても立てこもったのは島原城ではなくここ原城なんですよね。 なんだか新鮮な驚きを覚えてしまいました。 |
![]() |
|
![]() |
階段を下りる前に陸地の方を見るとなんだか雄大な大地の広さを感じてしまいました。島原じゃこんな感じの見れないから(笑)
シャトルバスがまだ来ていなかったのでスタート地点近くにある石祠・石碑を見に行きました。正規ルートでは後ろを通るので… |
▼ 遠くに雲仙普賢岳 ▼![]() |
|
|
本当に久しぶりの訪問、また世界遺産登録後っていう事もあったのが記憶に残っている原城とまったくと言っていいほどの変貌ぶりです。帰り車まで歩いて行こうか(所々に説明文もあったので)と思ったのですが体力がない私は歩きを断念… バスに乗って車まで向かいます。