がまだすドームと復興アリーナ
がまだすドーム(雲仙岳災害記念館)
歴史の教科書にも載っている「島原大変肥後迷惑」と言われる寛政4年(1792)の噴火から198年。
1990年11月に噴煙を上げ1995年2月まで続いた雲仙岳の噴火活動。その災害と復興の記録が展示されています。
400台の駐車場が完備されています。
入場料 個人(※記事作成時)
大人:1050円 / 中・高校生:740円 / 小学生:530円
場所:Googleマップ (記事作成時:こどもジオパーク表示)
公式サイト(がまだすドーム)
▼ ②車椅子置場 ▼![]() |
▼ 案内図 ▼![]() |
トランポリンやボルダリングなどで遊びさらに学べるコーナーがあるこどもジオパークが新設されています。屋内なので雨の日でも楽しめます。
こちらは別料金のようで350円(※記事作成時)と案内されていました。
館内には入らず外を周ってみることとします。案内図⑤遊歩道を歩いて行きます。上の写真は⑥ロックガーデンとなります。
⑫ビオトープと言われる場所のようで島原の湧水を利用した水辺や、石垣と緑の屋根を持ったエコハウスなど、動植物の繁殖を考え、生態系を保持する目的に作られた場所との事です。
池沿いに歩いて行くと⑪石の記憶と名付けられた場所がありました。
詳しくは右写真をクリックし拡大してご確認下さい。
そこの木の間からは島原市営平成町人工芝グラウンドが見えており夏休みに入った事もありサッカーの試合が行われていましたよ。
また池の向こう側には⑩シーソーが見えていました。
▼ ⑪石の記憶 ▼![]() |
▼ ⑩シーソー ▼![]() |
時代の流れなんでしょうかね?⑧ジャングルジムとなずけられた遊具があるのですが私のイメージと違うものでした。
振り返ると雲が多いのですが眉山とその奥の平成新山が見えていますね。
海岸沿いの道路に入ると釣りをされている方が多数おられます。そちらも写したかったのですが… 撮りにくく断念して先に進んで行きます。
がまだすドームの敷地に入り遊歩道を少し進むと⑦鉄棒がありました。
▼ ⑧ジャングルジム ▼![]() |
▼ ⑦鉄棒 ▼![]() |
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また少し行くと④ブランコがあります。
がまだすドームの周りはロックガーデンと名付けられた芝生の空間と各所に小さい子供が遊べる遊具が多数設置されているので建物の外でのんびり過ごすのもいいかも知れません。
ほぼ一周してきた所には平成十六年建てられた噴火災害後の故郷再生の礎にならんことを願った石碑とモニュメントがありました。
駐車場側に戻ると入ってすぐの場所にあった大きな岩と石碑があります。
「~今次災害におりお寄せいただいた全国の皆様の温かい御心に報いるため、速やかな復興を決意し、市民の総力を結集する象徴として、その一を選び、この地に移したものである。 平成七年十一月十七日 噴火五周年に当たり 島原生き残りと復興対策協議会」 一部抜粋
島原復興アリーナ
公式サイト(島原復興アリーナ)
サムライブルー龍馬像は7月15日に行った時は九州中学体育大会に向けお色直し中との事で足場が組まれていました。
坂本龍馬像島原上陸!
2010年6月にアフリカで開催されたサッカーワールドカップで決勝トーナメントに進出し、世界ベスト16入りを果たした日本代表の活躍は、日本国民に勇気と希望を与えてくれた。
この日本代表の活躍を国民と共に支え、サポーターを盛り上げたのが、東京・国立代々木競技場「サムライブルーパーク」に建てられた「サムライブルー竜馬像」である。
~ 省略 ~
財団法人日本サッカー協会並びにアディタスジャパン株式会社のご厚意により寄贈いただいたことは、スポーツ振興による地域の発展を目指す本市にとって大変意義深い事である。
平成22年10月吉日 島原市長 横田修一郎
※現地案内文より一部抜粋
・メインアリーナ 2,678.4㎡(62m x 43.2m)天井高:最高18m
バレーボール3面 / バドミントン12面 / 卓球20面
・サブアリーナ 655㎡(W32.4m x H20.2m x H9.9m)
バレーボール1面 / バドミントン3面 / 卓球10面
・多目的広場(芝生広場)
敷地面積(海側)W250m x D115m ○芝コート 2面 21,660㎡ ○クレーコート 1面 9,140㎡
敷地面積(山側)W195m x D88m ○サブコート(芝) 1面 19,160㎡
雲仙普賢岳災害従事装備展示物
任務とはいえ危険な場所での作業や昼夜問わずの監視・観測をして頂いた自衛官の方へ地元住民として感謝が絶えません。
何年経とうと「ありがとう」の気持ちを持ち続けています。
▼ 輸送ヘリ(V-107A) ▼![]() |
▼ 60式装甲車 ▼![]() |
雲仙普賢岳噴火災害 消防殉職者の碑
平成三年(1991)6月3日に発生した大火砕流で監視に当たっていた消防団員12名を含む43名の命が失われました。
1996年に噴火活動の終息を迎え、この慰霊碑は1999年に建立されています。